《女性向け》　エドロク。相変わらず変態。


 

香りに気付いたのは、顔を見るより早かった。

「香水変えた？」
単純に疑問を口にしたことに、相手は少なからず意表を突かれたようで、しかし、それを表情に出すことはなかった。ほんの一瞬の躊躇いを一拍の間に感じたことだけは確かだった。
「まあな」
肩を竦めて見せただけで、話題には触れないのは言及を拒んでいるのだろう。
「今回は何週間だ？」
「のんびりしてる暇ないよ。これのサイン貰ったらもう行く」
「先週もそんなこと言って旋風のように出て行ったのに？」
「あーそうだな、一つ所に半日も留まってられねーと、それこそ風にでもなった気がするよ」
自棄のように手を振り回して吐き棄てた。
普段から西に東に渡り歩いている生活ながら、ここ数週間は一日の大半を移動で浪費している。時間も体力も、気力もだ。

突きつけた封書を溜息の後に受け取って、相手は僅かに首を傾げる。その拍子にさらりと耳障りの良い音で長い金髪が胸元に垂れた。
「少し寝ていけ。咎められるのなら、砂嵐にでも遭ったことにすれば良い」

正直、身を持ってここの寝床の居心地の良さを知っているだけに、この誘惑が一番怖い。けれど使命感が、疲労困憊の身体に鞭を振り、鉄の意志で跳ね返す。

「そう言う訳に行くか。
　良いからさっさとサインしろ」
言葉が固くなってしまうのは仕方ないにしろ、眠気や気だるさを誤魔化すための態度はすでに感づかれているだろう。険しい表情のあとの聞こえよがしな長い嘆息が物語っている。
不機嫌を誘ったのは確かだが、明らかな反発を取られることには気が引けた。何を言われるものかと身構えていた自分の横をあっさりと通り過ぎられたことに拍子抜けとともに安堵もする。立ったまま机の上に広げた書面に署名する間、無言を通したことに新たな不安が芽生えなくもなかったが、それよりも気を抜いただけで眠気に倒れそうな精神力を固持し続けることに精一杯だった。

そうして彼が残り少ない気力と戦っているうちに、封蝋まで施した封書を眼前に突き返される。

「どうも」
文句を言う体力もなく緩慢に手を伸ばしたのだが、差し出されたはずの封書に触れる前に、それは頭上に翻された。
「……なんだよ」
「………」
背伸びをすれば届かない距離でも高さでもない。
子どもじみた嫌がらせをされる意図を謀りかねていると、反対の手で顎を捉えられた。拘束とも言えない、添えただけの力ではあったが、それだけで彼は男の主張を飲み込み、大人しく目を閉じる。
ほどなく触れる口付けと同時に忍び込んでくる舌。慣れない香りに戸惑ったものの、愛撫は相変わらず彼の好きな甘さと熱で施される。この男とのキスは単純に気持ちが良いから彼は好きだった。久方振りの感触に浸り、求められるままに応えて求め返している内に咥内に溢れた唾液を、彼は飲み込む。

瞬間、唾液とともに硬い何かが喉を降りた。

「……！
　あんた……」

夢心地の後に広がるのは、喉の違和感と鼻につく薬剤の匂い。
ここでようやく、いつもと違う香水を纏っていた理由に気付いたことに舌打ちを漏らす。胸を押して睨み上げる眼差しの先で男は涼しい顔で肩を竦めて見せた。
「なに、飲ませた」
「すぐに分かる」
「……っの、野郎……！」

腹立たしさに声を荒げるより早く、顎を鷲掴まれて上を向かされる。

「お人形遊びと言うのも面白いな」
「……変態」
「何とでも」
罵倒すら愉しそうに哂って返す男に頭が沸騰しそうな怒りを感じたが、それよりも酩酊のような視界の揺れに襲われた。平衡感覚が狂ったように、揺れているのが自分なのか世界なのか分からない。それでも何とか立っているのは男の服を掴んでいるからだが、その感覚もあやふやになり始める。
歯を食い縛って途切れそうになる意識を繋ぎ止めるが、それももう時間の問題だろう。

「覚えてろよ……」
完全に意識を手放してしまう前にせめてと、霞む視界の中でもう陰の姿になってしまった男に恨み言を吐き出す。と同時に、完全に全身の力が抜けてしまった彼の身体は足元から崩れ落ちる。

「お前が忘れてなければな」

脱力して倒れこむ彼を抱きかかえて支えた男の飄々とした囁きを最後に、意識は途切れた。完全に眠りに落ちた身体を横抱きに抱え直して男は溜息を吐く。だらりと垂れた腕に、汚れに混じった沢山の擦過傷を見つけて、また違う意味の嘆息が漏れる。
「……さあ、じゃあお風呂から入ろうか、ベイビー」
呟きは誰に聞かれるものでもなかったが、男は自分の言葉を反芻して自嘲気味に笑った。腕の中では早くも、何日かぶりの眠りに深く落ちた彼の健やかな寝息が聞こえていた。