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北見先生のえびチリ食べたいです! って言ったら呪文になって自分が食べたくなったのでやった。
北見の溜息を拾うように、テルはするりと傍らに寄った。
気付いた時には、彼にしては珍しく控えめに口元を引き締めて笑みを堪えているのが見えた。
「……どうした?」
就業の合間、持ち回りの往診から帰ってきたらしいテルと、医局で仕事を片付けている北見。他の者は全員出払っていて、HOTも入らないそんな平和な時間。
テルは辺りを気にするように見回してから、そっと囁くように声を潜めた。
「今日は、えびチリが食べたいなー……とか」
「………」
何を言い出すのかと、北見は胡乱な眼差しでテルを見遣る。
テルは曖昧に歪めた笑みを保ち続け、えびチリ、と小さな声で繰り返す。
北見の料理の腕前は、テルと出会って確実に磨かれた。
何せ、夕食を餌にテルを釣り上げて好き勝手にしてきたのだ。自然とレパートリーは広がるし、着実に腕も上がろうと言うもの。喜ぶところではなさそうだが、まあ、当の釣られるテルが大層喜んでいるようなのでそれで良しとしている。
『えびチリ、ね』
好き嫌いのないテルからのリクエストは、実は少ない。
献立は北見の気分で決めているし、苦情も一度もない。
テルと北見の関係は今でこそ落ち着いているが、馴れ初めから長い間、周囲が感じ取れるほど険悪で仕方がなかった。常に北見が強いる関係は、テルに相当の無理と負担を与えてきた。その反応は恐れと脅え以外の何者でもなかったし、北見もまた、そんなテルに苛立ちを隠してこなかった。
そう言った緊張が長らく続いていた制か、テルには未だ、北見への態度をどう変化させれば良いのか分からないところがあるらしい。
求めること望むことは勿論、訴えることも少ない。
献立をリクエストし出したのは少し前からだが、テルが求めているものに気付いたのは、ごくごく最近のことだ。
一月に一度か二度、テルの我が侭を叶えてやり、それが何度か続いたある日、学会の準備で追い詰められていた北見がテルの申し出をすげなく追い払ったことがある。
怒るでも、拗ねるでもなく、テルは悄然と肩を落として静かに引き下がった。苛立っていた北見に罪悪感を感じさせるほどの落胆ぶりに、テルが求めているものが食事の献立ではなかったことに気付いた。
北見の家で驚くほど大人しくしている子どもが欲しがったのは、
「時間かかるぞ」
「待ちます! 手伝うし!」
「家の台所を使い物にならなくさせる気か」
厭味にも負けずにわーいと喜ぶテルには、恐らく北見の声は聞こえていないだろう。
「良いからさっさと仕事に行け」
白紙のメモ用紙を投げつけて促すと、子どもは満面の笑みで駆け出していく。走るな、と怒鳴っても右から左に流れていくのはもうお約束だし、カートにぶつかる音さえ聞こえなければ許容範囲にしておいてやろう、と北見は寛大に作業に戻る。
ここのところ数ヶ月ほど、二人の休みが重なっていないこと。
仕事に追われていること。昼と夜とのすれ違いが多くて、あまり家に呼んでいないこと。
そんなことが続くと、テルは突然あれが食べたいこれが食べたいと言い出し、それを理由に北見の家に来たがった。
テルの感情がこちらに向けられていることを自覚した時、そしてその控えめな我が侭を受け入れた後に綻ぶ笑顔に、北見の枷が一つずつなくなっていくような気がした。脅えも不安も、今の彼からは感じないことも、北見の心を軽くしている。問題は。
「えびチリか……」
ここの所の同僚からのお誘いで、胃が疲れているところに来ての中華料理はさすがに厳しいと言うことだ。